【物部神社】謎多きニギハヤヒの息子ウマシマジノミコト【石見】

出雲の神様
こんにちは、はっさくです。

今回は、島根県大田市にある物部神社に行ってきました。

出雲神系の神社に行きなれているので、この神社、とても違和感がありました。

提灯に菊の紋と鶴

これは、天孫系でアマテラス信仰であり、天皇系であることを示します。

出雲神との違いは、
出雲は(亀甲紋)ヤマトはという象徴の違いです。

は龍神(海蛇)信仰、は太陽信仰です。


は千年は万年


はっさくが思うにこれは、歴史の長さだと思います。

この言葉が生まれた時点で、出雲の歴史は他の地域より長かったのでしょう。


「出雲大社」と「物部神社」、戦前までとても仲が悪かったそうです。

なぜ仲が悪かったのか、なぜ敵陣に神社があるのか、
はっさくと一緒に謎を解明してみましょう!

御祭神ウマシマジノミコトと物部氏

さて、みなさん「宇摩志麻遅命うましまじのみこと」、ご存知でしょうか。

はっさくは知りませんでした(笑)


【宇摩志麻遅命】

 天皇より先に大和に降りた謎多き神「饒速日命にぎはやひのみこと」の息子で、物部氏の祖。

 神武東征の際の活躍によって、フツノミタマの剣を賜った。

 同族の尾張氏と共に挙兵し、尾張、美濃、新潟を平定。

 その後、播磨、丹波を経て、出雲の西隣りの石見(大田市)に移り住む。


どうして出雲なの????

物部氏には、隠された謎がたくさんありそうです。

物部氏ってどこから来たの?

物部氏は、蘇我氏と神仏闘争で破れたことが有名です。

物部氏の祖、饒速日命にぎはやひのみことは

天磐船に乗って大和に降臨したとあります。

ので、天皇と同等の天孫系ではあります。

が、実際のところ詳しい記述はありません。

色々な史実から考察していこうと思います。


大和政権の祭祀軍事を担っていた物部氏。

大和政権の祭祀の形態は「吉備国」(岡山県)と同じでした。(埋葬文化が)


つまり、物部氏は吉備国の出で、祭祀のやり方をそのまま持ってきたと考えられます。


日本書紀には、吉備国のことはほとんど出てきません。

そして、あれだけ大きな国だったにもかかわらず、吉備国を落とす記述がありません。

最初から、吉備国は大和陣営だったのではないでしょうか。

遷都の際、物部氏を古都に置き去りにした藤原氏が

日本書紀で物部氏のことを詳しく書くわけがないと思います。

藤原不比等は、強大な力を持っていた物部氏を蹴落としたい一心だったでしょう。

出雲の国譲りと物部氏

出雲の国譲りの話に、ヒントがひとつあります。

高御産巣日神たかみむすびのかみ(天孫)が経津主命ふつぬしのかみを出雲に送り込んだ。

物部氏の神宝に「フツノミタマ」「フツノツルギ」というのがあります。

フツというのは物部氏のことではないでしょうか。

ということは、物部氏が出雲を落としたのでしょう。


2つ目のヒントは、この当時、北九州勢力は朝鮮との交易(鉄)が盛んだったことです。


3つ目は、物部氏の本当の拠点が吉備国という考察です。


ここで答えが出ました。

なぜ、物部氏の祖「宇摩志麻遅命うましまじのみこと」が出雲の西隣に居をかまえたのか…

東に「大和」

南に物部の本拠地「吉備国北九州からのが遮断されるように、出雲の西に陣取る


すべては、出雲制圧の為

そして、出雲の支配権を物部のものにする為


だったのではないでしょうか。

終わりに

ちなみに、饒速日命にぎはやひのみことの別称からも、物部氏の思惑が垣間見えます。


スサノオ五番目の子
 天照国照彦天火明櫛玉
饒速日命あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと


スサノオの子?!

ってツッコミを入れたいのは置いときまして…

スサノオの出雲も、太陽信仰の大和も全て


物部が統べる


という意志を感じます。

饒速日命の別称は、物部氏が後付けしたものでしょう。

一番先に大和に降り立ち、祭祀と軍事で国を実行支配。

そして出雲を落とし、一族の栄華を誇った時

物部氏はこう思ったのではないでしょうか。


この強い意思こそが、一度没落しても

長い時間をかけて盛り返す、物部氏一族の力の源だったのではないでしょうか。


出雲を制圧したこと、出雲大社を押さえたのは物部氏を騙した藤原氏の大和政権だったこと…

この2つが出雲大社と物部神社の不仲の原因かもしれないですね。


古代日本は、豪族たちのスケールの大きい戦いが繰り広げられていたでしょう。

どんなテレビや映画にも勝ると思います。


みなさんもはっさくと一緒に、古代日本に旅に出てみませんか。

楽しい時間が待っていますよ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました