【出雲国造とヤマト】力関係から国譲りの真実を探る【出雲神族】

出雲の神様
こんにちは、はっさくです。

今回は、はっさくがずっと疑問に思っていたことを

自分なりの考察で、解決していこうと思います。

天皇に、屈辱的なほどへりくだる出雲国造

「出雲国造神賀詞いずものくにのみやつこかむよごと

《奏上》
出雲国造が新任されると朝廷に参何し、天皇から負幸物おいさちもの下賜かしされる。(新任の儀式)

出雲国造は出雲に一度戻り、一年潔斎(けがれをはらうこと)

再び朝廷に出向き、献物を捧げる。

その上で、天皇に恭順の意を示す神賀詞が奏上される。

《内容》
縁起の良い言葉をならべ、天皇にへりくだり、出雲の国譲りの経緯を述べる


国譲りの時代にさかのぼり、天皇家に恭順することを誓うことは、

出雲国造にとって屈辱的です。

さらに、「続日本紀」元正天皇のとき、

国造が奏上した時、天皇の姿はなく

代わりに代理人に向かってかしこまります。

出雲国造にとって、二重の屈辱というわけです。


ここで、はっさくの最大の疑問が発生します。

同じ天孫族なのに、なぜこんなに仲が悪いのか

謎を解くヒントは、記紀神話に

神武東征のときの、記紀神話は長いので簡潔に。


ヤマトを目前に、磐余彦いわれびこ(後の神武天皇)は

兄、五瀬命いつせのみことの仇である長髄彦ながすねひこに戦いを挑みます。

そこに、饒速日命にぎはやひのみことが参上し、

「高天原の御子が天降ったと聞きまいりました。」

と言い、神であることを示す宝物を献上し、臣下になります。

饒速日命は長髄彦の妹と結婚しています。

長髄彦は最後まで、饒速日命を王として立てようとしたため

饒速日命本人に、切られて亡くなります。


この話の中にヒントを見つけました。

ヤマトを治めていたのは、

長髄彦 ⇒ 饒速日命 ⇒ 神武

という順だったということ。

日本は二度、朝鮮の勢力に屈服していた

国譲りの時、まず出雲に派遣されたのは、天穂日命です。

出雲国造の祖は、天穂日命とされています。


ホヒ一族は、朝鮮からやってきた一族で、出雲王を退けた(国譲り)後、

ヤマト地方にいた、出雲族も倒しヤマトに君臨したと思われます。


もともと、出雲族は戦いを好みません。

戦闘的な朝鮮民族には、あっさり負けたことでしょう。

戦わず、従った地方もあったと思われます。

長髄彦は、ヤマト地方にいた出雲族の首長だったと考察します。

饒速日命はホヒ一族であったでしょう。


その後、神武一族がホヒ一族をおさえ、ヤマトの王になります。


そう、はっさくはヤマトの天孫族は、ひとつの部族と思っていたため、

天穂日命の子孫である出雲国造と、天皇家の仲の悪さを理解できずにいたのでした。

古代日本の国盗りの戦いをした、ホヒ一族と神武一族が仲が良いはずありませんもの。

(同じ、朝鮮民族なのにね💧)

血を好む天皇たち

口伝では、神武東征の際

神武一族は戦いの中、6人亡くなっています。

はっさくは、この6人、欠史八代のうちの6人だと思っています。


天孫族は、クナト大社(熊野大社)の宝の勾玉を奪います。

この事により出雲族は、祭祀をやめてしまいます。

ホヒ族が祭祀を代行しますが、各地で反乱が起き国は乱れます。


天孫族内乱

数百年の後、天孫族の中で内乱が起きます。

各地の渡来系の豪族たちは、自分たちの王を天皇にしようと衝突します。

そして、あろうことか

王や皇子もいなくなったのでした…(考えと行動が短絡的としか言いようがありません💧)

はっさくは、この内乱が

「倭国大乱」だと思っています。


この危機を脱しようと

大伴金村と物部麁鹿火もののべのあらかひが動きます。

まず、仲哀天皇の五世孫の倭彦王やまとひこのおうを担ぎ出しますが、

迎えの兵が見えた瞬間、逃亡し、行方不明になります。

よほど、争いに巻き込まれるのが怖かったのでしょう。


そして、渡来人に対して中立に近い出雲の王家に、天皇を出すように頼みます。

しかし「渡来人のために天皇になりたくない」と依頼を突っぱねます。

(渡来人というのは、新羅系ヒボコ族、倭漢氏系かつらぎ一族、百済系、高句麗系の人々)

出雲を、残虐行為で奪われた恨みがあるので、もっともだと思います。


その後も、渡来系の豪族たちから頼まれ続け、

出雲神族は立ち上がります。

26代「継体けいたい天皇」―27代「安閑あんかん天皇」―28代「宣化せんか天皇」

と、三代、出雲神族の天皇が続きます。

終わりに

出雲神族の「継体天皇」は即位後、河内から山背を転々として

19年後、ヤマトに入ります。


天皇が決まっていながら、19年も争いが止まなかったなんて、

ずっと前から、古代日本に平和に生きてきた出雲族は

好戦的で短絡的な渡来人にあきれていたことでしょう。

戦いを好んでいた渡来人たちは、陰険で残虐なやり方で

出雲族が治める古代日本を獲ったくせに、

出雲族の呪いを畏れていたなんて、なんて言ったらいいのか…


記紀神話では、こんなに戦いの歴史を書いてはないです。

そのため、辻褄が合わない謎がいくつも出てきます。

しかし、その時代の人々の気持ちになって考えると、案外、謎は解けるものです。

みなさんも一緒に、謎を解く旅に出てみませんか。

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