こんにちは、はっさくです。
今回は、出雲市と雲南市の遺跡に行ってきました。
たくさんの銅剣、銅鐸に魅せられて散策してきましたよ。
古代の人も、こんな気持ちだったのでしょうか。
神話でなく、考古学的発見が
古代出雲の繁栄と衰退を、浮き彫りにしました。
それでは、古代出雲の神宝発見から、何が見えてきたのでしょうか。
加茂岩倉遺跡の銅鐸と荒神谷遺跡の銅剣
《加茂岩倉遺跡の伝説》
出雲国風土記、神原の郷
古老が伝えて言うことには、天下をお造りになった大神が、
神宝(みたから)を積んで置かれた所だ。
それで神財(かむたから)の郷というべきだが、今の人は神原の郷と言っている。
雲陽誌、大原郡岩倉の条
民家の西に高さ三丈(約9m)横七間(約12.7m)の岩窟がある。
里の古老が言うには、昔、神原村に長者がいて、この窟を宝蔵としていた。
だから岩倉と名付けた。
加茂岩倉遺跡の入り口にある大岩が、この岩窟と思われます。
地元民のあいだで、大岩付近を、定期的に清掃を促す口伝があることから、
磐座として信仰されていたと予想されます。
そして、現代に「岩倉」の地名として残っています。
大穴持命(大国主命)の神宝を積み置いたという伝承さながらに、
1996年10月加茂町岩倉から、多数の銅鐸(弥生中期)が発見されました。
畿内や他の各地で製作されたものの他に、出雲で生産されたと思われるものもあります。
実際、銅鐸を見た感想ですが、とても薄い!
現代の技術では、再現が不可能らしいです。
古代の人々の、高度な冶金技術に感嘆の声をあげました。
製造技術の謎もさることながら、
荒神谷遺跡から出土した銅剣と、加茂岩倉遺跡の銅鐸には
タガネで印されたと思われる「X」印が刻まれているという謎もあります。
全国で出土したものには無いそうなので、
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の、青銅の威信財は
同一の持ち主であることが考えられます。
何のために、隠すように埋めたのでしょうか。
神原神社古墳
旧神原神社の本殿下にあった古墳。
更に前は、神原神社は赤川を挟んで対岸にありました。
たまたま古墳の上に神社を建てたと思われます。
この古墳で注目されるのは、出土品の中の
「景初三年(239年)」(古代中国の年号)の刻印がある
三角縁神獣鏡(銅鏡)です。
「魏志倭人伝」で、邪馬台国の卑弥呼は、
景初三年に魏の明帝に遣使し、明帝より銅鏡百枚を下賜されたとあります。
神原神社古墳で出土した銅鏡が、卑弥呼の銅鏡の一枚ではと話題となりました。
古墳自体も謎があります。
島根県では最古に属する前期古墳で、形は方墳です。
粘土でくぼみのある床は、出雲には無く畿内の前期古墳で採用されているものです。
はっさくは、この頃より少し前に、国譲りがされていると考察しています。
国内の勢力が入り乱れ始めた頃なので、
被葬者が、天孫族に係わる人物か、大国主命に係わる出雲族か謎です。
天孫族なら、神宝を奪いに
出雲族なら、護りに…といったところでしょうか。
終わりに
加茂岩倉遺跡から、北西に3kmに荒神谷遺跡
南東2kmに神原神社古墳
西に5kmのところに、出雲郡の仏経山「神名火山」
さらに、出雲の四隅突出型墳丘墓も遠くありません。
この地域に、かつて存在した勢力は強大であった証拠でしょう。
これらの遺跡が発見されるまでは(1984~1996年)、
古事記に書かれている出雲は、架空の作り話として
研究者の中では、王も国も存在しないものでした。
しかし、最多の銅剣、銅鐸が見つかった今となっては、
出雲はここに存在した!と大きな声で言い切れます。
時系列に並べると、
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は、同時期の弥生時代中期から後半
その後、四隅突出型墳丘墓 ― 弥生時代後期から終末期
次に、神原神社古墳 ― 古墳時代前期
です。ここからストーリーを考えるならば、
渡来人が攻めてきた ⇒ 宝を隠す ⇒ 王は死 ⇒ ひっそり神宝を守る(または、口伝をもとに神宝を探しに)
はっさく的には、畿内にいた出雲神族が守ったと思いたいですけどね。
実は、加茂岩倉遺跡のある旧大原郡には、
大穴持命(大国主命)の戦闘関係の伝承が多いです。
この地は、出雲と港のある意宇を結ぶ要地です。
記紀神話では、
スサノオは荒ぶる神、大国主命は穏やかな神として書かれていますが、
出雲国風土記では、全く逆です。
旧大原郡は、天孫族や、ホヒ族から、出雲の民を守るために戦った大国主命の姿を
今に伝えている場所ではないでしょうか。
古事記に書かれているような、無血の国譲りではなく
実際はたくさんの血が流れた戦闘があったと考察します。
大国主命の神宝とは、
銅剣や銅鐸だけでなく、
出雲族と呼ばれる、ともに生きた仲間だったのではないでしょうか。
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