【この世の理】アジスキタカヒコネと天若日子~謎多き「身逃げ神事」②~

出雲の神様
こんにちは、はっさくです。

今回も「身逃げ神事」の謎を追っていきたいと思います。

古事記に書かれている神話から、別の考察をしていきます。

それでは、いってみましょう‼

「身逃げ神事」おさらい

身逃げ神事はお盆のころ行われる出雲大社の神事です。


一日目 出雲大社の禰宜(出雲大社No.3)は穢れを祓うため斎館にこもる。

二日目 夕方、穢れを祓うため、稲佐の浜で海水につかります。

三日目 穢れを祓うことを完了させ、神を降ろせるようになります。

四日目 本番に歩くルートの下見、道見を行います。

五日目 本番(神幸) 狩衣姿で、出雲大社⇒湊社⇒赤人社⇒稲佐の浜の塩掻島で塩を掻く

神幸の時は誰にも見られてはいけない(見られたら最初からやり直し)

最後、国造家の祭壇と、出雲大社本殿に拝礼します。


神幸が行われている時、出雲国造は国造館を出て一族の家に泊まります身逃げ

神話の中のそっくりさん

国譲り神話のなかに、こんなお話があります。

アマテラスと高御産巣日神は、地上の国を天孫族が治めるため神々を派遣します。


はじめに天穂日命あめのほひのみこと(出雲国造の祖)を派遣しますが、大国主命に懐柔され3年報告なし。

つぎに天若日子あめのわかひこを派遣しますが、大国主命おおくにぬしのみことの娘と結婚し8年も報告なし。


派遣されたきじ鳴女なきめから、なぜ復命しないのか聞かれた天若日子は、弓で射てしまう。

この矢は高御産巣日神のところまで届くが、再び地上に放たれ天若日子の胸を貫く。


そこで天若日子の親族(天孫族)が弔いを始めます。

親友であったアジスキタカヒコネが弔いの場に行くと、二人がそっくりだった為

「若君は生きていた」と泣いて喜んだ。


しかし、死者に間違えられることは不遜と、アジスキタカヒコネは親族を切り捨てます。

アジスキタカヒコネ

島根県奥出雲町 三澤神社
父は大国主命、母は多紀理毘売たきりびめ命

妹は下照姫命(天若日子と結婚)

龍神と雷神を表す (雷神は農耕の神様) 
出雲大社の紋は、スサノオの亀甲紋(龍神)の中に農耕を表す紋(雷神)

鴨氏が祀っていたことから、迦毛大御神かものおおかみという別名がある


「出雲国風土記」では、

ヒゲが生え揃うまで泣き止まず、喋れなかった。

大国主命は、夢の中に神意が現れることを祈り、泣き続ける理由を問うた。

その夜、アジスキタカヒコネがしゃべる夢をみた。

目が覚めると子は、「みさわ」と言った。

そして「三澤」まで案内した。


泣き止まないのは、スサノオと似ています。

神格が高いという表現でしょうか。

スサノオの教えを尊いものとして生きた神様だからでしょうか。


意宇おう郡の賀茂の社にいわれがある。(島根県東部)

アジスキタカヒコネと天若日子

ここから、はっさくの考察です。


身逃げ神事が行われる周辺で、「犠牲になった神が出雲神そっくりだった。」

「そっくりな人間が犠牲になった。」という話があります。


身逃げ神事と天若日子の神話を重ねてみます。

禰宜は誰役?   天若日子です。

隠れていたのは誰?   アジスキタカヒコネです。



隠れていたということは、天若日子が狙われていることを知っていたと思われます。

ならなぜ、親友だった彼を助けなかったのか。


神話の中の天若日子の言葉 「私葦原の中つ国を統治しようと思う。」

にヒントを見つけました。

実際、胸を矢で射られた時、天若日子は新嘗祭を行っている最中でした。

、というのは先人も同じように出雲のまつりごとをした人がいるということ。

天穂日命でしょう。

自分は大国主命の息子でありながら、政をしていないのに(正妻の子でないから)

娘と結婚しただけで大きな顔をしだしたのが、許せなかったのでしょう。


顔が似ていたため、間違って亡き者にされるのを避けるため、逃げていたのではないでしょうか。

きっと、かわいい妹と結婚した頃は仲が良かったんでしょう。

終わりに

出雲国造は元は熊野大社(意宇郡)の宮司であったことから、

天穂日命(出雲国造の祖)は、大国主命から意宇郡(島根県東部)を任されたのでしょう。

出雲系ではないのに、なぜ祭祀を任されたのでしょうか。

きっとスサノオに対する信仰心が厚かったからでしょう。(熊野大社の祭神はスサノオ)


はっさくの考えですが、スサノオは世の理を伝えた神様であると思います。

すべての事象や物(自然)に神は宿り、

それらに不義理をすれば、大きくなって自分に災いとなって返ってくる

というのが根本的な思想だと思います。

自然と共存してきた縄文の人たちには、すんなり受け入れられたと思われます。

なぜなら、日本中にスサノオのお社があるから。

そして時を経て、災いとなって返ってくるというところが強調されて、

出雲神は祟ると畏れられたのではないでしょうか。


出雲国造はなぜ「身逃げ神事」を続けるのか。

天若日子が、出雲を統治しようとしたことは、

天孫にも出雲にも不義理である。

だから、自らに災いとなって返ってきた。

つまり、これはスサノオの世の理である


スサノオを崇拝していた天穂日命の子孫は、

この思想を未来に繋げるために、神事を続けるのではないでしょうか。


いかがだったでしょうか。

この当時の人の心は分かりませんが、はっさくが生きていたなら、こう考えたでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました