【四隅突出型墳丘墓】出雲王の繁栄と衰退のなぞと出雲振根【西谷墳丘墓】

出雲の神様
こんにちは、はっさくです。

今回は、出雲市の斐伊川の近くにある、西谷墳丘墓を見に行ってきました。

いくつもの同じ形の古墳があり、

物語としての神話の中の出雲ではなく

実在した王のいた出雲を感じさせてくれます。

この古墳の主は誰だったのか、思いを馳せながら

この時代背景を追っていきたいと思います。

四隅突出型墳丘墓

西谷墳丘墓の特徴は、四隅が張り出した形の方墳です。

これを「四隅突出型墳丘墓よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ」と言います。

この形の古墳は他にもたくさんあるのですが、

西谷墳丘墓のものは、大型です。

何基もあるところを見ると、一族のお墓かなって思います。

出雲に大きな力を持った王がいた証ではないでしょうか。


古墳の上に、柱を建てたであろう穴があることから、

四隅の出ているところから上り、お墓の上で祭祀を行っていたようです。

今なら、罰当たりって言われますね…


吉備国(岡山県)の特殊器台や

副葬品の鉄製の剣、ガラスの勾玉などが出土したことは、

国内外のたくさんの土地と交易があったことを証明しています。

それだけ強大な力を持った王は一体誰なのでしょうか。

出雲と熊野の伝説から

熊野大社は、出雲と和歌山にありますが

両方にイザナミの墓伝説が存在します。

熊は、もとは隈で「こもる」の意味です。


母なる神の墓がある土地=「隠れ国」と信じられていました。

(墓に埋葬することを、八十隈やそくまに隠れたという)

このことから、はっさくは、

古墳が流行するずっと前から、(四隅突出型墳丘墓のあとに前方後円墳が流行)

四隅突出型墳丘墓がある出雲では、

神である王を特別な墓に埋葬する風習があったのではないかと考えます。

出雲振根と出雲の神宝

日本書紀でのお話

十代崇神天皇(実在したヤマトの初代王と言われている)が群臣に

「出雲大神の宮にある、天から授けられた神宝を見てみたい」と言われた。


その時神宝を管理していたのは、出雲振根いずものふるね。

しかし出雲振根は九州に出張していた。

そこで弟の飯入根いいいりねが応対し、あっさりヤマトに神宝を渡してしまう。


出雲に帰ってきた出雲振根は、弟を叱責したが恨みは消えず

「止屋の淵やむやのふち」(島根県出雲市の旧斐伊川の淵)でだまし討ちし、亡きものにする。


このことはすぐに崇神天皇に報告され、出雲振根はヤマトの使者の手にかかってしまう。

神宝を奪うことの意味

実在するヤマトの初代王「崇神天皇」が、出雲の神宝を奪うと

出雲はどうなったのでしょうか。


政治はまつりごとと言われます。

「まつりごと」=祀りごと、つまり神の声を聞く神事を行う人がその土地を治めていたわけです。


神宝が無くなるということは、神事ができない⇒政ができない⇒王の力が無くなる

ということが言えます。


これは本当にそうだったようで、

出雲振根が亡くなって以降、

平安時代初頭(798年)天皇の命で、出雲国造が熊野大社から出雲大社に移るまで

出雲は放っておかれていました。

終わりに

大国主命以降、ヤマトに神宝を奪われるまで

出雲王として君臨した人々がいた証が、西谷墳丘墓だと思います。

もしくは、大国主命自身の墓だったのかもしれません。

西谷墳丘墓の終焉のあと、ヤマト政権の統一が進むからです。

はっさくは、この頃に国譲りがされたと思っています。


出雲の神宝が何だったのか知るすべもありませんが、

一国が無くなってしまうほどのすごいものであったでしょうね。


はっさくは、神宝がヤマトに移ったことが、国譲りにとどめを刺したのだと推察します。


古事記や日本書紀は、おとぎ話でなく史実を含んでいるものだということが、

考古学が進歩するにつれて、分かってきました。

みなさんも、古代の人々の息づかいを、現代に残る遺物に触れながら感じてみませんか。

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